プロジェクト135パート2 第23回 (トルコ)ギョレメ国立公園とカッパドキア岩窟群

 トルコは驚くほど親日家が多いといいます。「大昔、アジアの中心に住んでいた人が西へ行ってトルコ人になり、東へ行って日本人になった。だからトルコ人は日本人に親しみを覚えるんだ。」という説があるそうです。何故、トルコ人は親日家が多いのか、いろいろな説があるようですが、1890年9月16日、和歌山県串本市の沖合で、トルコの軍艦エルトゥールル号が座礁・沈没、乗組員650名のうち587名の犠牲者を出す大惨事があった時、村人の迅速な救出で69名のトルコ人が助かり、貧しい村でありながらトルコ人の為に非常食だった米や鶏を潰してふるまい、献身的な介護でトルコ人は回復。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされ、さらに礼を尽くして生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せてトルコに送還したそうです。このエルトゥールル号の事件での日本人の救助活動をトルコの人たちはずっと覚えていて、教科書にものせていたそうです。1985年3月、イラン、イラク戦争でサダムフセインが「今から48時間後に、イランの上空を飛ぶすべての飛行機を撃ち落す」という無茶苦茶な事をいい出し、世界各国が自国の飛行機を出して救出していたのに、日本政府は素早い決定が出来ず、空港にいた日本人はパニック状態になっていたそうです。そこに2機のトルコ航空機が到着し、216名の日本人を乗せて、成田に向けて救い出してくれたそうです。
 120年も前にエルトゥールル号の事件を今だに教え続けているトルコの人々に対し、たった30年前の救出劇を忘れてしまっている私達、恥ずかしい限りです。
 
■今回場所は
 

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西へ行ってトルコ人になった2人にはさまれた、東へ行って日本人になった人の図です。確かにどことなくルーツは同じ、みたいですヨネ。私の左側の女性は42才、日本語は十分出来ます。息子さんが23才で日本旅行をしてきたそうで、串本へ行ってきたそうです。
 
このVサインのオジさんがこの店のオーナーで、トルコ茶などふるまいながら、トルコ石の売り付けに成功してニンマリしているところです。トルコ人は親日家だし、十分値引きしてくれたんだから得したんだよなーと半信半疑の我がツレアイ、フセインの時に助けてくれたトルコ人だから、騙す訳ないヨナー、と不安そうです。どう見ても敗者と勝者のように見えるのですが…
 
さてお待ちかねカッパドキアです。これは観光名所でもなんでもない、ホテルの近くの道端の風景です。
 
朝食前にホテルの近くを歩くと、このような岩に住居や倉庫のような建物?がそこここにあります。
 
ちがう角度から見るとこんな風景です。ホテルは岩山をくりぬいて建っています。延々と岩山が続いています。
 
カッパドキアはアナトリア高原の中央部に広がる大奇岩地帯のことです。数億年前に起きたエルジエス山の噴火によって造られた地層で、火山灰と溶岩が数百メートルずつ積み重なった末、凝灰岩や溶岩層になったものです。その後も、岩部は風雨に打たれて浸食が進み、今では固い部分だけが残されて不思議な形の岩となっています。全体で見るとこんな感じです。
 
ガイドブックに出てくるパシャバー地区のきのこ岩です。上にある岩が固くて下の方が浸食されてこんな形になったようです。思っていたよりもとても大きなものでした。
 
このあたりには、こんな岩がウジャウジャありました。
 
こーんなに広いのです。
 
この谷の向こうの向こうまで、そのもっと先まで、カッパドキアの岩々は続いています。その自然景観だけでも十分世界遺産に値すると感じますが、ここのすごい所は、文化的価値も併せ持っており、日本にはない複合遺産なのです。
 
複合遺産の理由は、アラブから連れて来たラクダを遺跡案内に活用している点です。ナンテ冗談です。
 
カッパドキア地方はヒッタイト時代から通商路の要地として栄え、4世紀前後からはキリスト教の修道士が凝灰岩に洞窟を掘って住み始めました。ギョレメ屋外博物館といわれるあたりには30以上の岩窟教会があります。
 
修道院や教会には見事なフレスコ画が残っています。保存程度の良い教会は撮影禁止で、あまり良くないものしか撮れませんが、十分古い時代を想像できます。
 
教会の外観はこんな感じのものがあちこちにあります。4世紀前後など、ほとんどが人力で建てたのですからすごい事です。
 
撮れたうちの一番きれいなフレスコ画です。
 
近づくと外壁はこんな具合です。
 
内にはこんなものや…
 
こんなものや…があちこちにあります。
 
岩窟見学もちょっとあきて、お昼ご飯、そこで案内されたのが何と岩窟レストラン。修道院より派手でした
 
そして、そんな修道院や教会があちこちにあるのです。
 
お友達の出迎えをうけて…
 
岩の中を降りて…
 
今日のメニューはテスティケバブ。何と肉をツボで焼いた?煮込んだシチューというか、不思議な味のものをゴハンにかけて食べるのです。結構いけました。
 
デザートはイチジクのハチミツ甘煮とクルミ。甘すぎました。
 
レストランをでたら買い物帰りのオジさんが自転車を押していました。
 
子供達も自転車に乗っていました。
 
超有名観光地、カッパドキアにも自転車屋さんがありました。
 
自転車といえば、西洋人と見えた若者がギョレメの急坂を登っていました。カメラに反応してニコッとしてくれましたが苦しそうでした。
 
カッパドキア地区は奇岩群の自然遺産と、キリスト教修道士達がその奇岩群などに作った修道院や教会などの文化的遺産とがあり、それで複合遺産なのですが、修道院などの他にカイマルクの地下都市があります。ここはまだ入口です。
 
地下都市自体は紀元前400年頃の記録にも町の状態が記されているほど古く、その発祥や歴史には謎が多く、アラブ人から逃れたキリスト教徒が住んでいた、といわれているそうです。通路を閉じる為の大石。まん中の穴に棒を通じてゴロンと右側にまわすと通路が閉じるそうです。
 
カイマルクは2万人が暮していたといわれています。礼拝堂、学校、食料庫などがあり、大規模な共同生活が営まれていたことが想像できます。これは通気孔です。ここは5階建てで各階に通じていたそうです。
 
頭をかがめないと通れないような所だらけです。今の生活の方が良いですネ。
 
では今の生活。これはセマーという、宗教的な踊りで、カッパドキア周辺で夜の公演があります。ベリーダンスが主演だったのですが、そっちはうまくは撮れませんでした。
 
とても変ったトルコの楽器です。珍しく積極的に名前を聞いてメモして来たのに、メモをなくしてしまいました。どなたかこの楽器の名前をご存知ありませんか?
 
かくしてカッパドキアの1日は暮れたのです。何億年も前の噴火、4世紀頃からの人の営み、世界に類のない複合遺産カッパドキア。バラ色の地層がクッキリ見えたローズバレーの夕日は、世界遺産の旅のハイライトでもありました。
 現地のトルコ人ガイドはキリスト教はユダヤから北へ伝わり、カッパドキアで学んだ修道士たちが宣教師となってヨーロッパ各地にキリスト教を広めた。カッパドキアはキリスト教が広まる為の重要な修業の地であったと力説していました。確かに、シリアを北上するとトルコになり、トルコからギリシャ、ブルガリアに伝えられた、といわれると地勢的にもそーかなーと思ってしまいます。トルコに隣接する国にギリシャやブルガリアの他にシリア、イラク、イラン、アゼルバイジャン、アルメニア、グルジアなどがあり、トルコの複雑な位地を考えてしまいます。キリスト教がトルコからヨーロッパへ伝えられたかどうかは別にして、トルコはアラブ、アジア、ヨーロッパの混じり合った国である事は間違いありません。我々日本は近隣諸国とあまり親密とはいえませんが、数少ない?親日トルコをもっと知りたいと思う旅でした。次回はその人種の坩堝、混沌としたイスタンブールを紹介します。お楽しみに。