プロジェクト135パート2 第43回 (ウズベキスタン)ブハラ歴史地区

 ブハラはサンスクリット語で「僧院」という意味だそうで、中央アジアのみならず、イスラム世界全体の文化的中心地として繁栄を誇った町だそうです。ブハラは9世紀のサーマーン朝時代に始まり、優秀な宗教者や科学者、神学生、商人などが各地から集まり、交易の十字路としても栄え、水路なども整備され、都市生活も成熟したのだそうですが、1220年チンギス・ハーンの来襲で灰燼に帰してしまったそうです。16世紀に再びよみがえり、たくさんのモスクやメドレセが建造され、シルクロードの面影を色濃く残すブハラの町並みはこの頃完成し、今までほとんど変化していないそうです。以上ガイドブックの受け売りでした。では実際に行って見たらどんなだったでしょうか。
 
■今回場所は
 

より大きな地図で プロジェクト135 第43回(ウズベキスタン)ブハラ歴史地区 を表示
 
 
これがブハラの旧市街です。中央にそびえるのがカラーン・ミナレットです。チンギス・ハーンにも破壊されなかったというブハラのシンボルです。
 
これがウルグベク・メドレセです。神学校です。
 
これがアブドゥールアジス・ハン・メドレセ、上の神学校との違いが分かりますか?私は今でも皆同じに見えてしまいます。
 
何しろ、神学校は2階建て、2階部分が寄宿舎、という事ぐらいしか分かりませんが、とにかく青主体のタイルで装飾してあり、どの神学校も立派です。
 
でも修復前はこんな具合です。
 
今でも、いろいろな所で修復工事が行われています。
 
ところで、皆さん、この手に持っている2本の物体は何でしょう?ヒント、左が男の子用、右が女の子用です。答:ウズベキスタンでは子供の小さい時は揺りカゴに入れて育てるそうです。これをはめて、きっちりつつんで寝かせておくのだそうです。多分本当です。
 
さて、ここはどこでしたっけ?上の変なのを売っていた門を入ったところにありました。多分、何とかモスクです。
 
なーんて、ここはあのカラーン・ミナレットのある、カラーンモスクです。
 
ホラネ、いろいろな建物がたくさんあって全体が歴史地区で世界遺産なのです。
 
この家族が選んでいるのは何でしょう?これはナンを焼く前にベチッと押してツブツブの穴を開ける道具です。それにしても大金を払おうとしてるでしょう。これで3‐4ドルなのです。
 
モスクの前の迫力の肉屋さん、ウズベキスタンは肉屋さんがとても多いです。
 
これがアルク城の城壁です。この城のあたりが古代ブハラ発祥の地だそうです。
 
これが城門です。7世紀に女王フッタ・ハウトンがこの城でアラブと戦い、モンゴル来襲では立てこもり、1920年ソ連に攻略されて滅亡するまで、歴代ブハラ・ハーンの居城だったそうです。
 
城内の王族の礼拝所
 
王様が謁見する場所。
 
日本人のオバさんがウズベキスタンの少女をいじめているところです。
 
実はこうしたかったのです。何で同じ人間で顔の大きさがこんなに違うのでしょう。私、トーチャンに比べたら顔小さいと思うのですが……。
 
城の向かい側にあるブラハウズ・モスクです。このくらい特徴的だとあとからでもすぐ分かります。
 
近づくと柱はこんなに大きいのです。
 
チャシュマ・アイユブです。預言者ヨブの泉という名前だそうです。人々が水不足で苦しんでいたとき、ヨブがここを杖で叩いたら、泉が湧き出たという伝説があるそうです。日本でも聞いたことがあるような。
 
イスマイール・サーマーニ廟。世界中の考古学者や建築家に注目されているイスラム初期の霊廟で、892年から943年にかけて造られた中央アジアに現存する最古のイスラム建築だとか。
 
内側はこんな具合で、後期のタイルや金で飾りたてた廟に比べて簡素な風情です。
 
今日のメインです。牛、豚、羊、なんでもありでした。
 
チョル・ミナルで、4本のミナレットという意味だそうです。1807年にトルクメニスタン人の大富豪によって建てられた神学校の門番小屋だったそうです。神学校は今はないそうですが、これで門番小屋ですから学校はどんなだったのでしょう。
 
これがブハラの旧市街の何もない所です。
 
タキ、というそうで、大通りの交差点を丸屋根で覆ったバザールです。
 
そして今夜の大ご馳走です。右下がナンです。
 
このレストランは神学校の中にあります。こんな所でこんな事して良かったのでしょうか?
 
かくして今夜も無事終り、キャラバンにご挨拶です。
 
そしてそして、中央アジアの夜は暮れて、ブハラの一日が終ったのです。
 
ブハラの自転車達です。
 
突然ですが、ウズベキスタンにも仏教はあったそうです。タシケントの博物館で。
 
世界遺産ではありませんが、首都タシケントもモスクだらけでした。
 
ウズベキスタンの人々はとても人懐っこく、また、日本人あるいは観光客がめずらしいのかもしれません。これ、私が割り込んだのでなく、呼ばれたのです。
 
タシケントのバザールは品物豊富です。
 
特に肉の売り方は迫力ありました。
 
この子達、見て下さい。ウズベキスタンの人達は本当にフレンドリーでした。
今回のブハラでウズベキスタンは最終回です。私、個人としてはブハラが一番好きです。何といっても町が小さくてほとんど歩いて見てまわれます。それに遠いので観光客も少なく静かでした。ウズベキスタンはソ連に組み込まれていた時代がある為か、警察官の姿が目立つのと、鉄道やお店などにいる人があまりサービス精神があるとは思えません。でも一般の人達はとてもフレンドリーで安心して歩ける国でした。食事も野菜が多く、薄味で問題ありませんでした。自転車は極端に少なく、特にタシケントのような大都市ではほとんど見かけませんでした。主に四都市を見て来ましたが、今度行く機会があったら、山の近くの田園地帯にも行って見たいと思いました。帰りの機上から見た天山山脈はヨーロッパアルプスの比ではない迫力でした。次回はポーランドを予定しています。おつきあい下さい。