【プロジェクト135】とは、合計年齢 135歳(開始当時)、目標体重135kgとし、トム・カーコー夫妻が日本全国47都道府県を自転車で旅するという壮大な企画から始まりました。なんと、2年かけて、2人は47都道府県を制覇!!
そして、日本だけでは飽き足らず、今度は世界へ飛び出します!
【プロジェクト135 パート2】では、世界遺産を巡りながら、世界の自転車事情をお伝えしていきます。
富岡製糸場は3年前にプロジェクト135パート1の第7回長野県、群馬県、埼玉県の85kmを自転車で走った時に寄っています。今、見ると写真はたった3枚、まわりにも人はほとんどいなかった、世界遺産登録前の様子が写っています。写真もあっさりしていますが私達もサラッと見ただけで、あまり印象も深くなく、世界遺産になるとは思いませんでした。今回世界遺産になったというので、実際に訪ねる前に予習をしてみたら、富岡製糸場は遺産の主要な部分ではありますが、富岡製糸場と絹産業遺産群というのが正式名称で、製糸場の他に田島弥平旧宅、高山社跡、荒船風穴の合計4つの養蚕に関わる資産が世界遺産の価値を認められたのです。長い間生産量が限られていた生糸の大量生産を実現した「技術革新」と、世界と日本の間の「技術交流」を主題とした近代の絹産業全体に関する遺産なのです。絹産業がこんなに奥深いとは知りませんでした。田舎の家でおかいこさんが桑を食べている所とか、機おりの音とか、シルクロードとか、絹に関する言葉や光景を断片的には知っていましたが、それがどう組み合わさるのか、全体でどこがどうなっているのかは知りませんでした。それが世界遺産の「絹産業遺産群」を見てきて、何となく分かった気がしてきました。 | |||
■今回場所は | |||
より大きな地図で プロジェクト135 第51回(日本)富岡製糸場と絹産業遺産群 を表示 |
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そもそも、絹の大もとである蚕が毎年春に一度しかマユを生まなかったのが、生産量の限られていた一因です。 | |||
そのうえ、マユから生糸を紡ぐのも全て手仕事だった事も生産量に限りのある一因だったのでしょう。 | |||
これが富岡製糸場で使われていた製糸機です。この機械を使うのには、大量のマユの供給が必要でしたし、需要も必要でした。 | |||
これが大量生産を実現した富岡製糸場です。東と西にそれぞれ100mほどの繭置所、南北に140mの製糸場という巨大な施設です。明治5年に操業開始しました。 | |||
これが、遺産群の一つ田島弥平旧宅です。年1回だったマユを年に3回、4回と生ませる為の養蚕方法の改良をした人で「清涼育」という技法を完成させたんだそうです。 | |||
屋根の上の気抜き用の窓「ヤグラ」をつけて、空気循環を良くし、以後全国の模範となりました。 | |||
これは「蚕種」カイコのタマゴです。これから幼虫が生まれ、育ってマユを作るのです。一般的な養蚕農家はマユの段階で中のカイコを殺してマユから生糸を作ります。 | |||
これがマユで、一般的に一畝(1a)の桑畑で70kgの桑が取れ2,300個の蚕を養い、2,200粒のマユが取れ、900gの生糸になり、1反の絹織物になったのだそうです。 | |||
田島弥平さんなどの「蚕種」屋さんは、マユから生糸を取るのではなく、マユを作ったカイコをそのまま育て、タマゴ(蚕種)を作り、その蚕種を箱に入れて背負って行商し、各地の養蚕農家へ売って歩いたそうです。 | |||
その大型の輸出用の箱がこれです。当時、欧州で蚕の病気が流行し、蚕種は飛ぶように売れたそうです。日本からの輸出というと生糸と思いがちですが蚕種も大きな輸出品だったそうです。 | |||
このヒゲのオジさんは当時イタリヤから蚕種の買付けなどで10回以上も日本に来たイタリヤ養産農家の三男で、後に大富豪になったとか。 | |||
こちらは田島武平さん宅、若い世代も住んでいるので家をアルミサッシにしてしまい、世界遺産の指定は受けなかったとか。 | |||
蚕を育てるには桑が必要です。年1回から4回、5回と育てるには、その時期に適した桑の改良も大量生産には欠かせなかったのです。 | |||
こちらは高山社跡です。「清涼育」を開発したのが田島弥平さんですが、こちらの高山社の初代社長高山長五郎さんは「清温育」を開発しました。やはり2階の上に換気の為のヤグラがあります。 | |||
1階と2階の間も空気が流通出来るようになっています。 | |||
カイコダナがぎっしりです。 | |||
あちこちに火力を置く場所があり、寒い時は暖められるようになっています。 | |||
暑い時は部屋を開放して温度を下げ、寒い時は火力を用いて部屋を暖め、湿気が高い時は火力で空気を流通させ乾燥を促し、乾燥している時は窓を閉じて空気の流通を断ち桑葉が乾かないようにする工夫が家全体で出来るようになっています。 | |||
高山長五郎さん、高山社の素晴らしいのは、「清温育」の開発もですが、それを高山社蚕業学校を開校して全国に広めた事です。 | |||
高山長五郎さんの考えは二代目社長、町田菊次郎さんに引きつがれ、日本全国のみならず朝鮮や清国から留学生がやってきて、のべ2万人の学生が学んだとのこと。全国の養蚕の発展に尽くした人達です。 | |||
何故風穴が絹産業の遺産なのか?と思っていました。風穴は自然の冷風を利用した蚕種の貯蔵所であったのです。 | |||
荒船風穴は下仁田町の西端、標高840m前後の山あいにあり、駐車場から800mほど山道を下らないと行かれません。こんな、恐ろしいカンバンもありました。つまり、帰りは登るのでしょうか? | |||
最後はこんな感じで、イヤハヤ。普段だったら何でもないのですが、実は私、今回腰を痛めてまして、下まで行くかどうかなかり悩みました。 | |||
今はもう、建屋はないのですが、昔はこの様な建物が三棟あって、蚕種を冷蔵貯蔵していたのです。 | |||
この紙にタマゴがおよそ15,000粒、最適温度が10℃、最適温度が90%が良いとされたそうですが、荒船風穴では最盛期には60万枚も貯蔵したのだそうです。 | |||
古代から蚕のふ化は年に1階(春)であった養蚕を風穴を利用する事によって、ふ化時期を調整して、養蚕を年に複数回行う事が可能になった訳です。この丸の中に成虫、ガ、を1匹ずつ入れてタマゴを生ませたのです。ガは、グルグルまわって重ならないように生むそうです。 | |||
各地の養蚕農家で作られたマユが富岡製糸場に集められ生糸にされます。この建物は繭置所倉庫です。最盛期には32トン貯蔵されていたそうです。これが西と東で64トン。1畝の桑畑で2,200粒出来て4.7kg 64トンというと、エーと“すごくたくさん”の桑畑が必要だったのです。 | |||
こんな機械が140mも続いて大量生産したのです。 | |||
まだ電機のない時代、光は全て自然光で、ガラスも窓わくもフランスから輸入したのだそうです。 | |||
ここにある機械は繰業停止当時のまま。その後の機械なのだとか新しい機械は作られていないので、つまり現存する最新鋭なのだとか。 | |||
首長館です。フランス人ポールブリュナの館です。日本滞在中に子供が二人生まれたのだそうです。偉いですネー。 | |||
女工館です。女工といっても、これはフランスから来た女性教師が4名住んでいた館とか。15才、17才などという人もいたのだそうです。偉いですネー。でも半年ぐらいしか保たなかったとか。そりゃそうでしょうネ。 | |||
今回は全てが群馬県内、埼玉県に住んでいる私達としては楽な旅、の筈でしたが、何せ私め病み上がりよりで自由に歩けません。そこでゆっくり2泊3日で出かけました。おかげで4ヶ所それぞれで十分に時間を使えたので絹産業が立体的に見えた気がします。カイコが成虫になってマユを食いやぶって出て来て、ようやく卵を生む、そこでタネ屋さん蚕種屋さんが成り立ちます。生産を取る人達はカイコが成虫になるまで待ってくれません。サテ、ここで問題です。カイコが食いやぶって出て来たクズマユはどうするんでしょうか?これがつむぎ、結城つむぎとかになるんですって。知らなかったー。蚕の飼育が「天の虫」といわれるほど当り外れの大きかった時代に清涼育を開発した田島弥平さん、清温育の仕組みで収繭量の安定と品質の向上を格段に進歩させた高山長五郎さん、その教育により全国に指導者を育てた高山社蚕業学校の町田菊次郎さん、桑の改良、明治政府の政策、フランスを始めヨーロッパの情況、などなど、大量生産が出来る条件がそろってきた時代。活気に満ちた時代だったのでしょうネ。今回、富岡製紙場と絹産業遺産群を見て来て、大量生産を実現した「技術革新」の要素と、フランスなどとの技術の「交流」が出来た条件、社会的背景などを見られた気になっています。団体のバス旅行で行けば時間的・経済的な効率の良い事は分かっていますが、今回はゆったり個人旅、4ヶ所もまわったので盛りだくさんになってしまい紹介出来ませんでしたが、藤岡のうなぎもおいしかったです。楽しかったです 次回はコーカサスへ行きます。おつきあいください。 | |||
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